宮崎駿 「アニメの世界とシナリオ」

三色ボールペンを持って

『シナリオ』1995年1月号
(1994年 8月6日、シナリオ作家協会「1994年 夏の公開講座」の講演より)

を読んでみるとなんだか思いのほかじっくり面白く読めたので少し思ったことなどを書いてみる。*1
この文章は94年における宮崎駿の言葉ということを理解してから読んでもらいたい。



日本でマンガ・アニメーションが盛んな理由

宮崎駿が日本でマンガ・アニメーションが盛んな理由として大きく3つ挙げている。

  • 日本は線で物を受け止め、絵ですべてを描けるという考えがある
  • 凶暴な近代化のストレスに耐えるはけ口
  • 箸の文化

この3つである。ふむふむ、と読んでいるとまぁ僕が「勝手に言ってる放言ですけどね(笑)」みたいな書いてあるんだが、それでもポッと出の放言でなく、にじみ出ている放言であるからただの放言とは受け止められない。

上の3つの1つ目である線で物を受け止め、絵ですべてを表現するについてだが宮崎駿アメリカ人のアニメータと話していて感じることは「物の受け止め方が違う」ということらしい。

彼らは量で、立体で受け止めたいと思ってる。ところが、僕らは線で受け止めたいと思ってるんです。

その例として、光の表現・光線についても線によるすばらしいデッサンもあるが全体としては量で表現する傾向があるということや、影を描く際にも日本は線を引っ張り色を分けるがアメリカの友人はグラデーションにこだわると述べている。
こういうことは民族性というような部分を考えるほうが近く、日本は線とかエッジに対する感覚が敏感ではないかといっている。そしてそういう感覚で作られた物が昔でいうと、平安末期・鎌倉で言うと絵巻物であり、これは経済も政治も芸術も宗教もこの世のすべてを語ってみせようとしていた。そして平和な江戸になると浮世絵になりこれは物語性はあまりなく、現代にはまた激変の時代を向かえ、絵巻物的なマンガが再興した、というように語っている。*2
まぁこういうと外人のインタビュアーは大体納得して帰ってくれるそうだ(笑)

2つ目のストレスに対するはけ口というのはまぁある程度聞く話かもしれない。日本というのは他に例を見ないほど凶暴に近代化を進めた国で、そのはけ口として大人になってもマンガを読んでいるという現象がある、そういうことにしているそうだ。*3

3つめの箸の文化だがこれがマンガが流行るか否かの決め手だと思う、と述べている。朝鮮半島、中国、台湾、シンガポールあたりのこの人が勝手に言っている?「環太平洋通俗文化の共通性」というものがあるところには日本のマンガは大きな影響を与えるんじゃないかと述べている。これについてはあまり言及していないのでいささか疑問もある。実際に2007年現在では海外でもマンガが流行っているというのを聞く。*4けれどもこういう話を聞いて一番感じたのは、宮崎駿という人の「様子・状態・状況に対するものすごい洞察力と観察力」であり、さらにそこから得られたものを、*5「自らの物の捉え方にあてはめる・枠組みつくる」という習慣があるということを感じる。これは巷にあふれている"個性"なんていう言葉があらわしている"個性"、なんていうものではなく「個性」という言葉の本来の意味での「個性」、これを醸成する習慣だと思う。これが宮崎駿が作る作品の持つ世界観の説得力の要因の1つなのかな、なんて思ったりもした。





マンガの影響と性質

今、日本の文化状況の中で、一番大きな特徴というのはマンガが多くあるということじゃなくて、マンガがあらゆるジャンルに対して影響力を持っているということです。
つまり、マンガを読んで育った人が、マンガを描きたいけど描けないから小説を書いているとか、マンガを読んでそれを演劇や映画にしようと思ったとか、マンガからヒントを得て音楽のイメージアルバムを作ったとか。そのフィードバックの仕方が、非常に顕著になってきている。

とまず述べている。そしてなるほどと思った文で

何故、今、マンガがいろんな文化に影響を与えてるかという、最大の特徴は何かと考えると、マンガというのは読みたくないものは読まないんです。

とある。つまりマンガとは人が気軽に捨てることができるコンテンツでもあるんだなと思う。映画館に入ってつまらなかったから5分で出てきたっていう人はそんなにいないでしょという例も挙げている。確かにそのとおりだ。*6


それからもう一つの特徴としてこう述べている。

マンガというのは、時間と空間を際限なくデフォルメすることが出来るんです。

これは感じることが多いと思う。マンガの売りはデフォルメだ、さらにいえば現実にない表現だというようなことだ。つまり好きな特性を好きなだけ伸ばせるということだ。これによって個別化をはかり、その個別性を気に入った人が読む。気に入らなければ読まないということができる。しかしこれを成り立たせているのも、マンガの多さということもある。

マンガに始まるものではないんですが、忍者の水グモという水の上を歩ける輪っかみたいな道具があるんですが、これはヨーロッパ人は絶対信じないんです。アルキメデスの原理に反するって。日本人は修行すれば出来るんじゃないかなって(笑)

絶対信じないというのは誇張もあるだろうが、確かに日本人ならば、DBを見た人ならば誰でもカメハメ波が出るんじゃないか!?と思って試したと思う。*7

読みたくないものは読まない、したがって評論の対象になりにくい、それから際限なく空間と時間が捩じ曲げられるというものが、日本の文化に大きな影響を与えてるということが、僕らの抱えてる最大の問題点です。それは良いも悪いも含めての問題だと思います。

94年の言葉だが、現在でも広意範囲で有用な問題提起だと思う。





マンガとアニメーションの違い

・・・・・・少女マンガを見てください。少女マンガが面白いのには理由があるんですね。あれは心象風景ですから、見たくないものは描かない。風景の中に人間は居なくて、その人が見た風景を描いているんです。
(中略)
少女マンガは、アニメーションになるかというのは、僕らがよく雑談する時の格好のテーマなんですけどね。一人の人間の心の中を、どれほど映像で描写できるのか、実は少女マンガの場合、絵もあるけどほとんど字で表現している。字と紙の余白で表現しています。

つまりマンガの特徴であるという「見たくないものは見ない、描かない」という特徴を発揮しているのが少女マンガであるといえる。デフォルメを十二分に使っている。巨人の星の一球のようにあからさまなデフォルメではないが、違うデフォルメを行っている。小説もマンガと同様にデフォルメがやりやすいものだと思う。*8

しかし映像にするとデフォルメはやりにくくなる。これが小説を映画にして、マンガをアニメーションにしてがっかりする大きな原因の一つではないかと思う。つまり映像にすると、連続性を持った動画にすると時間や空間を捩じ曲げにくくなるため、デフォルメが行いにくくなる。その結果デフォルメされていない映像では、デフォルメされているマンガや小説に比べると、その差異にがっかりするんじゃないだろうか。なぜならデフォルメされている部分が売りであり、それを人はその作品に求めることが多いのだから。

だから映画を作る人間は

この女は果たして魅力があるのかって、一生懸命考えなきゃならない。何か実際自分の周りに居る人間とか、どこかで手に入れた人間像で肉付けして、ただ座っているだけでも*9何か魅力が出てくる人間を作らなきゃダメですよね。あるいはそういう女優を見つけなきゃダメです。

と述べている。

すこし話がそれるがアメリカの話が出ていた。

日本のマンガがアメリカに進出してるなんて喜んでる人いますけど、それは風呂場の隅の小さなタイル一個が日本のマンガになったくらいで、それだけの意味しかもっていない。
アメリカ社会で、一番社会全体を繋いでいるのはマンガじゃなくて彼らにとっては映画なんです。

なるほどなと思う。アメリカは多種多様なものを受け入れる性質はあるが、その中でも一つのものが独立性を持って大きくなる性質もあると思う。独立性と規模というのはやはりアメリカが育む性質なんだろうな。
さらに話がそれるけどやっぱりアメリカでは映画が一番。そして俳優ランキングも映画俳優が一番。そして下にテレビ俳優やCM俳優がいる。日本はCMが金を持ち、権力を持っているからテレビやら映画で売れたらCM俳優にというのが当たり前になっている。(というエントリーを先日見たんですが・・・すみませんちょっと探したのですが出てこないので参考にさせてもらったエントリーを明示できません)





アニメーションのシナリオ

基本的に宮崎駿は脚本・シナリオを書かないで絵コンテを脚本とし膨らませる。
何故かと言うと

ひとえに、自分の脳みその訓練をそうしちゃったからなんです。字で書くというのも何回かやってみたんですが、字でうまくいってると思ってても、絵コンテにしてみると必ずダメになるんです。成り立たない、自分の考えが浅はかだったことがわかるんですね。

これはあくまで宮崎駿がそうなのであって、字で書くこと自体が浅はかだなんていうことじゃない。それなら文学なんて生まれない。やっぱり適性のようなものだろう。
が、あえて言えば絵のほうが持っているもの、描けるものは多いんじゃないだろうか。パソコンのデータ的に見れば絵は字の78(だっけ?)倍の情報量を持っているし、絵(映像)は人が生み出したものでなく元から世界にあるものだが、字は人が生み出したもであり、人が生み出したものには存在する限界、この場合は表現の限界というようなものがあるだろう。その代わり認識しやすさはやはり字のほうが圧倒的だと思う。
けれどおそらく宮崎駿は絵のほうの認識力が高く、そこから表現できる能力があることを経験的に知っているから絵コンテから作品を作るというだけだろう。





私の欲しいシナリオ

その一方で

・実は、良いシナリオがないかっていつも思ってるんです。
・僕らはホンが欲しいから・・・

とも述べている。

映画を観て、あそこよかったな、というのは、クリスマスツリーで言えば、輝いてぶら下がっているサンタクロースとか、光ってる星とかね、提灯とかロウソクとか、そういうもの(デコレーション)を観て、あれ良かったとかいうのと同じなんですよね。
で、そういうものばっかり作る人が居るんです。星とか、そういう物を並べれば、面白がるんじゃないかと思ってね。これ駄目です。それ、クリスマスツリーじゃありませんから。クリスマスツリーっていうのは気がないと駄目なんです。幹がないとクリスマスツリーにならないでしょ。
(中略)
・・・・・・駄目だっていうと、今度は、幹だけくるんですよ。「人類の運命は・・・・・・」とかですね、こんな太い幹だけが、丸太でドーンと立っていて枝も葉っぱも何もついてないんです。
(中略)
そういうテーマさえあれば、映画は出来ると思ったりする。とんでもない間違いですよね。
(中略)
映画を観た時に、いいなと思うのは、そのデコレーションの部分なんだけど、実はその総体の中にあるんです。
(中略)
つまり、根っこが張ってて、そういうデコレーションがチラチラとちりばめれるような、そういう幹と枝がついている瑞々しいホンこないかなあと・・・・・・。

なんだか(中略)ばかりになりましたが、まぁ・・・上の意見でほとんど否定できるとこはないですね(笑)もともとシナリオの「シ」の字も知らない私が否定するにも知らないんで否定できないんですが。
でもやっぱり映画を観たときにいいな、と感想でよく言われるのはデコレーションの部分ですよね。あの部分があのシーンが良かった、感動したなんていう感想。けれどやはり映画全体としてもイイとしかいえない映画。そういう映画もやはりあります。つまり総体の部分は認知はするものの、認知したものを言語化するのが難しい。イイものはイイ!っていう感覚。好きな人の好きな点は、なんていうのは挙げれば挙げることはできるが結局は総体を好きになる。好きなものは好きだと、そういう感覚。
思い込みともいえるかもしれないが、そういうってしまうと全てがむなしくなるので。

そして上に述べているようなシナリオがほとんどない、来ないから結局宮崎駿が絵コンテから映画を作る。つまり根っこから自分で作り出してしまった作品が多いので、宮崎駿の作品はその世界観に圧倒的な説得力がある。そういうことになっているのだろう。




シナリオ作りの問題点

*10ある時期まで、ドラマを作るっていうのは人間同士の事を描けば済んでたんです。
(中略)
*11全人類的に1960年代で僕は終わったと思うんです。
(中略)
*12自然が大事だ、光合成が大事だってことを、じゃ映画で作ればいいかって言えば、それは丸太なんですよね、ゴロンとした。
(中略)
こういう両方の、ものすごく離れてしまった、つまり先のことやいろんなことを考えるとですね、頭がくらくらしてどうすることもできないような大問題を抱えてる時に、一方で相も変わらず、永遠のテーマっていうのは、家族がなんだとか、人間とは何かって言うことでドラマを作っていくという、この一見分裂している物を、なんとか統合して一つの映画を作れないかっていうのが、今僕らが、自分たちだけじゃなくて、この国全体が、この星の住人全体が抱えている問題じゃないかって気がするんです。

ずいぶん大きなことになってるな、という感じも受ける。が、これはアニメーションのシナリオを通して世界を見ているだけでアニメーションのシナリオが問題そのもの、又は問題解決につながるなんてことじゃない。そもそもこの人はアニメーションをそんな高尚な物なんて考えていないし、どちらかというと通俗的なものであると考えているしそれでイイ、それこそがアニメーションだと思っている思う。
けれど上のような問題をいかに解決するか、というのは避けては通れない問題だ。というより逃げてもいつかは追いつかれる。しかも追いつかれて引きずり倒される。それもほとんどの人類がほぼ同時期引きずり倒されるだろう。想像するとおかしいが実際にそうなのだ。
そしてこれはあまりにも難しい問題だ。そもそもものすごく離れてしまっているものを一つの頭で統合しようなんていうのが無理なのかもしれない。たぶん私には無理だ。ならどうするかだが、ネットというものにその可能性を見出すことはできないだろうか?おそらくこの人は否定するだろう。んなことできるか、馬鹿が、と。いやなんとなくだけど。けれどネットに作り出される新たな頭、境界線がはっきりしない頭、全体像を認知はできない頭。そういった大きな頭が大きな問題を解決できないだろうか?もちろんこの頭は全ての人が共有する頭だ。つまり人は自分の頭と全ての人が共有する頭、二つの頭を持つことになる。何百年後か知らないがそうなれば少しは可能性が見えないだろうか。
まーた陳腐で食傷気味の考えを、と自分でも思ってしまうが何かしら希望を持っていたいから。

・・・・・・その両方を忘れないで、なんとか映画を作れないだろうか・・・というのは物凄く難しい問題です。
で、僕たちは子供相手ですから、ある部分で子供に逃げ込むんですけど。子供にそういう難しい話をさせるより、とにかく、元気に育って欲しい。とりあえず、今はそうやって元気に生きろというエールを贈る映画を作ればいいんだと。
これは実は逃げなんですね。その場で生きている大人はどうすんだって問題がありますから。逃げだって分かりながら、やっているんです。今もやっています。それは、いい狙いとは言わないです。

この人の映画を作る方針というのは一貫している、子供のためにということだ。古いインタビューを見てもそう書いてるし、今もそういい続けている。だから紅の豚を作ったことは後悔した。自分のための映画過ぎたと。もちろん自分も映画を作ることを楽しみ作るんだろうけど、それは子供のために作る映画であることが前提である。こういったものがこの人にはずっとある。
けれど子供のためという一貫している方針さえ、逃げている一面があることを認識している。その上でずっとやっている。悩みながらずっとやっているんだなぁ、と物凄く人間らしさがある。イイやり方じゃないけど、これが悪い中では最良のやり方だと信じてやっているのは、おそらくしんどくて何度ももう無理だと思いながら作ってきたんだろう。実際にもう無理、って思うみたいだし。けれど今もやっている。

そういう物を無視して、人間同士だけでドラマを作ったり、あるいは民族同士の問題にすり替えたり・・・・・処理に困ると、たいてい身近な問題にする替えるんです。宗教の問題で、国境紛争とか民族紛争とかいっぱいおこってますけど、あれはすり替えですからね。自分たちで解決できない時に、あいつらのせいだって決め付けるんです。それはもう、あいつらのせいだというのは物凄く流行ってますからね、これからも流行るでしょう。

1994年時点で53歳。中二病か、このオッサン。
なんて思うんだったらまぁそれもいいだろう。そういう人はそういう人だ。けれどほとんどの人には物凄く真剣なことぐらいはわかるだろう。しかもこういった職業でこういったことを言う、それがどういうことかも覚悟をしていってるんだろう。まぁ今はもうだいぶ歳だからこういうことは大きな声で言えなくなりつつあるのかもしれないが。





最良のシナリオとは

一旦決めて、映画を作り出すと、映画作ってるんじゃないですね、映画に作らされているようになるんです。

これを読んでダビデ像を作ったミケランジェロの言葉を思い出した。
「石が命じるままに彫るだけだ」
ミケランジェロと比べるなんてお前は宮崎駿を崇拝しすぎ、という風に思われるかもしれないがそれは間違いです。なぜならミケランジェロがどれほどの人物かわかっていないので。そして私には芸術品を見る目はまだない。いろんな芸術品をイイと理解できるようにはなりたいが、今のところわからないというのが素直な感想だ。*13ただルネサンスの三大巨匠の一人が同じようなことを言っていたな、と思っただけである。

安直に、あそこの映画でこういう風にやっていたから、ヒョイって持ってきても、それを安直に持ってきただけですから、くっつかないんですよ。最良の方法じゃない。それが駄目だなと思うと、探すしかないんです。自分の頭の中探しても見つからないんです。
それで、僕が映画を作るときに、絵コンテに時間が掛かるっていうのは、それなんですけども、そのときに逃げちゃ駄目なんです。困るしかないんです。それでうんと困ると、もう少し奥の脳が考えてくれるんです・・・と思うしかないんですよ。
(中略)
だから、要はそこまで自分を追い詰められるかどうかなんです。それが一番大事なこと。そうするとですね、映画を作ってるんじゃなくて、実は、映画に作らされてるって感じにはなってきます。


ヒョイと持ってくるので思いついたのはパロディ、オマージュのようなものだ。これなんかも笑えるように使えるし、いいなと感じることがある。というか私はほとんどのものは何かしら肯定してしまう。けれどこれはやはり良いとは思えても最良じゃないんだ、少なくともこの人が求めている最良ではないんだろうと感じる。
最良だと思えるのにたどり着くには困るしかない、そうするともう少し何かが・・・と思うしかないというのを読んだときはオイッ!と思い少し笑った。けどそういうとこに持っていけるかどうか、やっぱり持っていける人が成したいことを成せる可能性を持てる人なんだろうな、と思う。
そして映画に作らされる。おそらく映画も人を選ぶんだろう。自分を見ることができるのはこの人であり、この人しか作れないと分かり選ぶんだろう。
ジガ・ヴェルトフ*14は「わたしは機械、私ひとりだけが見ることのできる世界を諸君に示す。」と言った。この言葉は冷たい感じを受ける言葉だが、これも何か通じるところがあるんじゃないだろうか。


最後、人の言葉の引用が増え自分の言葉が少なくなってしまったことに少しだけ嫌悪感を覚えるが、これはこの人を語れるほどこの人を理解できていないという意識があるからだ、というのもある(ことにする)。それにこういう引用の引き出しは増やしていきたいと思う面もある。
が、やはりもう少しだけでも自分の言葉で語れるようにはなりたい。後、内容が肯定ばかりになってしまったのでもう少し批判も・・・。


なんだか長くなりましたが、もしここまで長駄文を読んでくれた方がいましたらありがとうございました。

*1:二段組で13Pほどのものだが、思いつきでダラダラと書いた文はちょっと長い

*2:そして自ら放言であると言っている

*3:ほかの宮崎駿の文を見るとこういう現象には否定的だと認識している

*4:流行っている、という言葉はあまりにも適当な言葉なので本当に流行っているのかどうかはわからないが

*5:正しいかどうかは別として

*6:映画館に入ってすぐに出ないのは料金の違い、習慣の違いなんていうのはもちろんだが、そういう違いを生む性質がそもそもコンテンツが持つ特徴ともいえる

*7:子供だったから??それとも私だけ??

*8:少女マンガ的デフォルメの方を得意とする

*9:デフォルメが不十分でも

*10:映画を作るときの問題点として

*11:けれどもそういう時代は

*12:次に

*13:これからそういったものをただひたすら見る時間を作ってみたいとは思う。で、自分がどう感じるか知りたい。

*14:攻殻SACで有名に??