物に見える意識が付随してたら


大学から帰るときに、ふと思った。ここに生えてた木ってこんな木だったのかと。思えば5年もいるのに、どこに何の木が生えていて、ここにこーいうポールがあったのか、なんて未だに思う。まだ何も知らないんだなって。
それと同時にこのポールにもいろんな人の意識がくっついてるんだろうな、と感じた。たとえば私がこう思ったような意識。このポールにもたれて、好きな人と話していたかもしれない人の意識。不注意でぶつかって笑われた人の意識、これを建てた人が建てるときにあった意識、いろんな意識。もしそういうものが見える形であったら、たとえば物には意識ボタンなんていうものが皆くっついていてそれを押せば意識があふれてきたら。
え?このブロックにこんな大量の意識が?この門にこんな変わった意識が?この石の傷にはこの人のこんなドラマがあって意識が?なんて発見であふれかえるんだろうな。けれど実際にはそういうボタンはくっついてなくて、想いを馳せるぐらいしかできない。けれど想いを馳せることは別に苦痛でもなんでもなく、楽しみなんだからもっといろんな物に想いを馳せるようになりたい。
そしておそらく、そういう意識の中で人が感じやすい部類の意識が集中した場所、それが歴史的遺跡であったりして観光地になるんだろうな。観光地のような感じやすい意識ももっともっと感じたいし、身近にあふれてる感じにくい意識ももっと感じれるようになりたいな。

昨日の文章とか、宮崎駿の観察力の凄さ、細やかさみたいなものに感化されたんだろうな。少しでも身近なものに対する観察力と洞察力を持ちたい。そして身近なもののかすかな変化。そういうものを感じ取れるようになりたい。