ぶれる人
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ぶれない人はどこにいるか
資料作りの筆休め的に朝早くに見たエントリーから。
朝一番から
tapestry::reikon
ぶれない人に
に対してのコメント。
寝起きが悪い私には寝起きにこういうのはコメントは厳しそうだ。
ぶれない人という言葉はよく聞くし、往々にしてよい意味で用いられる。
そして私もぶれない人になりたいな、と思う。
なぜなら私はぶれる人だからだ。
danさんも同様に引用しているが
そんなときに思うのは、やはり自分というものをしっかり持って、信念とまではいかなくても、行動指針のようなものが自分の根っこにある「ぶれない人」であれば、どんなにかラクに生きていけるだろうに、ということです。「ぶれない人」であれば、たくさんの人にもまれようが、逆に孤独になろうが、自分の行動に迷いがないし、責任も取れる自信があるから、ラクに乗り越えられる気がします。
というのは違和感を感じる。
ぶれない人は決して楽ではないと思う。
しかしdanさんが言うようにぶれを抑えるためにコストを支払っている、という意識はないようにも思う。
コストを支払わなければならなくなる人もいる、ということだと思う。
ぶれない人とは高くて太い柱だろう。
しかしある程度のブレを許容する柱だろう。
低くて太い柱、ブレないだけの柱とはタダ人に腰掛けられる切り株になってしまうだろう。
高くて細い柱は高いだけでブレまくり、折れまくり、使いにくい。
ぶれない人がぶれずにいられるのは、順風の時も逆風の時も、自分をぶれずに支持してくれる人がいるからです。順風の時にだけ支持してくれる人におもねると、その人たちのぶれが自分にも反映され、結果としてその人の行動はずいぶんとぶれたものとなります。
これは思い至らなかったが素直になるほど、そうだなと思った。
楽に生きたいからぶれない人になりたいのではない。
逆に言えば楽に生きたければブレまくってもいいのではないか?
そう思う。
そういう意味ではreikonさんも楽に生きたいというのではない気がする。
(ってか今気づいたけど、これは結構前のエントリーなのか)
ぶれない人になりたい、というのは何かしら自分の理想の状態で有り続けたいということだろう。
それにはまず自分の理想の状態、なりたい自分とやらがわからないといけないが
これがまた難しい。
如何に生きるか、そういう問題になってしまう。