バベル

ロッコで生活のために山羊を襲うジャッカルを撃つために銃を渡された兄弟。彼らはその腕を競い合うように発砲。その銃弾はツアーバスの女性客の体を撃ち抜いた。女性はモロッコに旅行に来ていたアメリカ人夫婦の妻。夫は家に残した子供たちの面倒をみている乳母に電話をするが、乳母は突然の出来事に驚き悩む。息子の結婚式に出席したい彼女は、やむを得ず、夫婦の子供たちをメキシコに連れていくことにした。一方、日本では、母親を泣くしたショックから立ち直れない聾唖の女子高生が愛を求めて町をさまよっていた。自分は誰にも愛されないのか、誰も抱きしめてくれないのかと心の中で叫んでいた…。
一発の銃弾が、モロッコ、メキシコ、日本を撃ち抜く。お互い見知らぬ関係なのに、その銃弾は彼らの人生に次々と暗い影を落とす。人生は突然、思いがけない事態に陥り、人々は悩み、苦しみ、ときには地獄を見る。しかし、そこから何かが生まれることもあるのだ。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトウ監督は『アモーレス・ペロス』のときから、人生のどん底をこれでもかと見せつけるが、決して登場人物を見放すことはない。必ずや長く暗いトンネルの向こうに細く差し込む光を描くのだ。モロッコ編で夫婦を演じるのはブラット・ピットとケイト・ブランシェット。メキシコ編で乳母を演じるのは『アモーレス・ペロス』にも出演していたアドリアナ・バラッザ。その甥をガエル・ガルシア・ベルナルが演じている。そして日本編は、女子高生役に菊地凛子、父親は役所広司。ブラッドはどうしようもない現実に苛立ち、苦悩しながらも、妻や家族への愛を確信する中年の男を力強く演じきり、菊地が演じる少女の孤独は痛々しく胸に突き刺さる。彼女の悲しみと怒りを讃えた瞳は見るものをとらえて離さないだろう。(斎藤 香)

ずいぶん見るのが遅くなったが、借りてきて見た。今スタッフロールが流れている。
12日の夜にNHK坂本龍一役所広司の対談があり、その中で流された坂本龍一の曲を聞き、見たくなり見た。
日本の撮影で使われたdankogaiさんの部屋も見てみたかったしね。*1


にしても複雑だ。絡まった糸くずを、といてみろとわたされたようだ。見た後の気持ちも複雑になるし、映画自体も複雑だ。この映画では、一丁の銃による因果で世界が絡み合い、絡み合った先々でフラクタルな世界が描かれている。因果という輪に、それぞれ我欲と愛*2という歯車が存在しているようだ。
もちろん題名の「バベル」という名の通り、コミュニケーション不全もこの映画の一つのキーワードだ。リチャードとスーザン、アブドゥラ一家、ケンジとチエコ。どこでも通じあえずにいる。言語によるコミュニケーション不全を埋めようとしているのが、肉体によるコミュニケーションだ。チエコの例を一番わかりやすく描き、ユセフとその姉、アメリアと知人の男という構図も同様だ。
まとまらないな・・・。思いつくままに書こう。
事の発端は善意だ。ケンジが善意でアブドゥラに挙げた一丁の銃だ。それがなければスーザンは撃たれなかったし、ユセフは撃たなかったし、スーザンが撃たれなかったらリチャードとスーザンはアメリカに帰れていたし*3アメリアは余裕を持って息子の結婚式に出席できた。そしておそらくケンジが銃を持っていなかったら妻は拳銃で自殺していなかっただろう。映画の内容から、おそらくケンジは妻を拳銃自殺でなくしてからハンティングはしていないんだろう。
銃。道具。便利な道具。けれど銃の用途は何かを傷つけること。最もポピュラーな用途が殺すこと。そう、銃は殺す道具。効率よく殺す道具。道具に善悪はないというが、それは善悪を誰も定義できないからであって、善悪を定義できるならば道具に善悪は存在する。現在はまだ定義はできていないから、人を殺すことさえ悪と断定できない。もし人を殺すことを悪とするなら、それは動物全般にも拡張されて、何かを殺して摂食する動物は全て悪になるだろうから、おそらく人は人を殺してはいけないと永遠に断定できない。ベジタリアンになればいいじゃん、っていうかもしれないが私にはなぜ葉は食っていいのかわからない。*4植物だって生きてる。

ずれてきた。ケンジがアブドゥルにあげた一丁の銃に戻ってみよう。もしケンジが銃をあげなかったら、一連の悲劇は起こらなかったのだろうか。おそらく起こらなかっただろう。多くの人は悲しまずに済んだのだろう。世界の悲しさの総量はおそらく減っていたんだろう。けど今回は善意が悲劇に繋がったが、もし善意を否定するならば世界の喜びや嬉しさの総量もおそらく減ってしまうのだろう。中学ぐらいから考えが進歩してないけど、やっぱり世界の感情のプラスマイナスはつりあっているんだ。だから悲しさを減らしていけば、嬉しさも減っていく。世界は起伏のないフラットなものになる。大きな喜びと悲しみのある世界か、喜びも悲しみもない世界かどちらかしかないのかな。
もしバベルの話のように、世界が同じ言葉で、さらには一歩進んだコミュニケーションを手に入れれば違った選択も可能になるのだろうか。いや、世界が同じ言葉じゃないから、一歩進んだコミュニケーションの登場を期待できるのかもしれない。それがいつになるのかなんて到底わからないけど、おそらく言葉を混乱させた神がいたのなら、そいつは一歩進んだコミュニケーションをまだ得てないな。神は人に期待してやったのか、嫉妬してやったのか。幼年期の考えに浸りすぎか。


映画の表現で印象的だったのは聾唖者であるチエコがクラブに行ったときの、音のオンオフだった。音がなければなんと異様なことだろう。音が聞こえないとのれないのだ。クラブにいる人は、音という台の上に立って高揚して、思わずジュリアナ*5してるだけであって感情で踊っているのではないだろう。(先日のエントリーと少し関係するけど)でもやっぱり音は、言葉より感情表現に優れたツールなのかな。でもそれじゃ、聾唖者は?いつまで経ってもそのツールを持たざる人でいるしかないのか。Life is Music☆なんて持つものの傲慢にすぎないのか。

頭に思い浮かぶことをそのまま書くと、どうしても話がどんどんあらぬ方向にいくなぁ・・・。




それにしてもメキシコの空は。

*1:映画の最後のシーン、あのベランダ怖くないのかね

*2:夫婦であるリチャードとスーザン、兄弟であるアフメッドとユセフ、親子であるケンジとチエコ、他人であるアメリアと子供達

*3:帰れていたかどうかは定かじゃないけど

*4:もちろんベジタリアンが何かを殺して食うのが嫌だからベジタブルしか食わないわけではないだろうけど

*5:古いか