1000万hit!

内田樹の研究所
ヒット1000万のお礼に代えまして

1000万hitだそうです。
それだけの人を読ませてきたというのは本当に凄いですね。
おめでとうございます。
これからも楽しみにしてます。


私は高校のとき(まだギリギリ20世紀だったはず)に作っていたHPが100万hitいったことはあったけど
褒められる内容のHPではなかったなぁ・・・。

1000万という数字をそのまま本に当てはめてみると
wikipedia ベストセラー参照)

星の王子さま 600万部
すごい、星の王子さまに勝っている!

三省堂国語辞典 1000万部
辞典と肩を並べている!!

翔ぶが如く 1070万部
飛ぶが如くに迫る勢い!

とまぁ、凄いことになります。
データを基準化しないで比べてる時点でおかしいなんていうのはよしておこう。

にしても

アンパンマン やなせたかし 1970年 フレーベル館 5000万部
徳川家康 山岡荘八 1950年 講談社 3000万部
人間革命 池田大作 1965年 聖教新聞社 2500万部
幻魔大戦 平井和正 1978年 角川書店 2000万部
スレイヤーズ 神坂一(本文)あらいずみるい(イラスト) 1990年 富士見書房 1200万部


ここらへんは想像以上に売れてるんだなぁ。

やなせたかし、恐るべし。
池田大作、おそるべし。
徳川家康、おそるべし。

最後だけ著者じゃないけど。

スレイヤーズは小学生のとき読んだなぁ。
なかなか楽しめた記憶がある。



ここからは少し内田さんの意見に対するコメントを書いてみたい。
確かに日本人は外界に対する憧れ、恐れ、反応などがどれも大きいように思う。
これはありがちな意見だが、やはり島国ということが一番大きな要因だろう。
しかしこれは日本にだけ言えることなのだろうか?
私は外国には旅行で少し訪れただけなのでわからないが、他に似たような国は存在しないのだろうか??

話はそこから自分らしさ、というようなものに移っていく。
(私にはこのくだりが少し不自然に思えたが、これは私の読解力のなさも手伝っていると思う)

日本人のいう「自分らしさ」の追求というのは、自己探求というよりは、どちらかというと「いかに『これまでの自分』から離脱するか」という自己離脱に軸足を置いている。

これはどうなのだろうか??
自分らしさの追及ではむしろ自己からの離脱でなく、自己の存続のようなものを重視しているような人が多い気がする。
私が想像している自分らしさ、というのは往々にして自己弁護や擁護の言葉として使われているものを想像しているから余計にそう感じているだけか。

私は自分らしさ、なんていう言葉は嫌いだった。
いや、今も特に好きではない。

しかしある時、自分らしさというものがないことに気づいた。
これは内田さんが言っておられるように、
(上の文で否定しておきながらもう意見を変えるのか、と自分に突っ込みたいが)

属邦人の特徴として、自己探求と自己放棄が同義である

という主張そのままで、自分の属する組織、自分に付随する人、物などを全て取ってしまったとき、そのとき自分はなんなんだろう、
という考え方で主張にある自己放棄=自己探求という、属邦人の考え方である。


・・・やっぱり属邦人である私がそのように自己探求を考えたんだから、属邦人の特徴なのかな。。。


ただ、ならば、自己探求とはどのようなものなんだろう??
属邦人でない人は基本的に自己放棄をせずに、そのまま自己探求を行うということなんだろうか。
これは属邦人がどうというのもあるだろうが、それよりも結局はどこまでを自己と捉えるかの問題ではないだろうか?


自己探求、自分とは、自分の存在意義、価値、レゾンデートル(raison d'etre)、アイデンティティ・・・
いくら歳をとっても考え続けることなのかもしれないが、
22歳、大学生。
こういうことを考える自分を見たとき、若いね。

若いね、なんて言ってる自分も若いね。
そしてひねくれ者だ。


最後にもう1文引用すると

最近のメディアの論調を見ていると「『・・・はもう古い』という言い方はもう古い」とか「何かにつけことの善し悪しを簡単に決めつけるのはよろしくない」というような措辞が散見されるのである。
こういう背理に直面する以外に私たちは自分には背理に耐える論理がないという事実を知ることができないのである。

その通りである。
私も同様に思い、感じている。

しかしながら自分には背理に耐え得るものはないのだ・・・。