音楽を聴いて


音楽を聴いて泣くことってありますかね?
私はうるむぐらいのことは結構あります。

ただこのところなかったんですが
宇多田ヒカルのBeautiful Worldを聞いててなんか少しうるみました。
歌詞がそんなに好きなわけでもないんですが、なぜか。
旋律やらに感動したのだろうか。


で、音楽を聴いて号泣することってありますかね?
ただ純粋に音楽を聴いて。
音楽に付随する状況やらによって、号泣することはあると思うんですが
ただただ、純粋に音楽を聴いて号泣したことはないです。*1

具体的な経験によって号泣することはあるし、よく映画やらでも描かれている。
けれど純粋に音を聴いて、その音に感動し、号泣する。
そういうことはあまりないと思う。*2

これができる人は、また七夕の国からの言葉になってしまうけど
手がとどく人なんだろうな、とか思う。*3
私は芸術に疎いからわからないが、音楽家ともなると純粋に音を聴き号泣するのだろうか?



ではなぜ、私が音を聴いて号泣しないのかというと
音そのものじゃなくて、やっぱり音に付随する経験によってうるんでいるだけじゃないかな
とか思う。
私の考え方は基本的に抽象的な概念をもって考える癖があるくせに
本質的に抽象的な世界に住んでいるわけでもないというわけだ。


この前友達と話していて、なんか長期的にしていることってある?と聞いてみた。
その友達は行動力があり、がんばれる奴で尊敬もしている。
就職が決まって今は遊ぶ時期と考え遊びまくっているみたいだが
答えは、ずっと考えたことはノートに載っているというようなことだった。

どんなことを書いているのかというと、私にはない視点でモノを見てそれを書き留めているようだ。
彼は具体的にモノを見て具体的に行動を起こす。
私は具体的なモノを求めて、抽象的に考えて悶々とする。


嫌がるだろうけど、今度見せてもらえたらその書いてるものを見せてもらおうかな。




何が書きたかったのかはわからないが*4
このごろ考えていることとして、自分が感じている物事は本当に微々たるものでしかないということを
この半年ほど痛感しているということだ。

それは人と比較しても、自分の周りにありふれている人たちと比較しても劣っていると感じている。
そんなに人は難しく考えたり、深く感じたりしてないよ。と誰かに言われたとしても
感じるというものに共通の定規がないので、その言葉は正しいものにはなれない。

*1:付随する状況というのには、歌詞なども含んでいる。たとえば歌詞というものは音というものに、その人独自のパッケージ化作業じゃないかなと考える。決してこの作業を侮蔑しているわけでもなく、この作業を主眼として価値を考えることもできるし、それは人それぞれ。私がどちらに価値を置いているのかは自分でもわかっていない。

*2:ここでは目がうるんだりすることよりも、号泣するというほうが感動している行為として上位と位置づけているけど、これが正しいとは思っていないが仮定としてそうしておく。

*3:手がとどく人ほど稀なことではなくて、絶対数としては窓をひらいた者のほうに近いんだろうけど

*4:基本的に何かからポっと思ったこと、そのあたりでふわふわとふらついて、書き留めているだけです・・・