Facebook


上の書評で少し述べたがFacebookについて。
Facebookを知ったのは本当につい最近。
梅田望夫さんの話で知った。


Facebookとは何かというとSNSである。
私はmixiやらはやってはいるものの、2.3ヶ月に一回見るか見ないかである。
まぁmixi談は置いておいて、mixiFacebookでは何が違うのかというと
いや、日本のSNSと海外のSNSが何が違うのかというとやはり実名かつ自分の写真の公表をしているかどうかだろう。
海外のSNSはその割合が日本の比じゃないほどに高い。


日本の文化には顔をしっかりと出してモノを言い合うのは合わない、と言ってしまえばそれまで。
けれどこのままでいいのだろうか?
答えははっきりしている。
別にこのままでもいいし、このままではよくないし、だろう。


前者なら前者で、そのような文化でしか生まれないものが生まれると思う。
けれどこれからネットを使ってのネットワークの構築が、より現実世界にも及んでくることは確実である。
そのときを思うと危機感を感じないだろうか?
みんながネットを使って、英語を使って、現実のネットワークを構築し、現実の行動に移すようになったとき
普通の人なら疎外感のような危機感を感じるだろう。


もし日本が孤立し、それでも独自に生きていけるほどの強さがあり
そしてそのための独自の行動もしているのであれば、また違うものが生み出すことができるだろう。
けれど今の日本がそこまで強いようには思えない。
ならばせめて置いていかれないように、とりあえずでもいいから必死で追いかけてみるべきじゃないだろうか。



で、Facebookが更に新しいのはオープン宣言があったこと。
Facebook用のアプリケーションが簡単に作れる環境が整えられて
さらにそこでのビジネスもできるようになった。(らしい)
日本ではこういうのはほどんど?ない。


SNSにおける個人のオープン、そしてSNSシステムとしてのオープン。
2つのオープンで日本は遅れてしまっていると言っていいだろう。


なんだか日本のネットはどこに向かうのだろう、と思ってしまう。
ニコニコ動画は日本っぽさ、というか2chっぽさが出ているもので独自のものが生まれてきていると思ってもいいだろう。
けれどニコニコにニコニコしてていいのか?
日本は新しいモノを生み出すことはできるのだが、新しいシステムのようなものを生み出す力が弱いと感じる。
木の葉っぱや花は作ることが幹になれないでいる気がする。
幹が腐ってしまったら葉っぱはどうすることもできない。

いや、けれども葉っぱがあるから幹に栄養がいく。
ならばやはり日本は独自の道を行くべきなのだろうか。
まぁ安っぽいペシミズムに浸ってるぐらいなら、なんでもいいから作ってる方がいいだろう


けれど中途半端に、幹にも葉にもなろうとして小さな木になってしまい、太陽が当たらずもう育たない。
そんな状態にだけはなりたくない。