謝ってよ

そういえば昨日、亀田の長男が謝っていたなぁ。
なんだあの試合は!謝れ!なんだあの次男は!なんだあの親父は!ってかメディアも悪いだろ!なんでメディアは「メディアも責任がある」ということを表明して謝らないんだ!「責任がある」じゃなくて「責任を取れ!」親が悪い!やっと謝ったか、なんて色々考え*1があるんだろうけど全部に共通することは全体がある対象に謝罪を要求していることだ。

どうやら多くの人たちは謝ってほしくて仕方ないらしい。メディアは謝罪会見をすればネタができるし、視聴者はとんでもないことをやってくれた亀田選手に「自分が悪かった、すみませんでした」と認識させたくて仕方ないらしい。
亀田選手だけにそうしたいわけではないみたいだ。テレビ局にも「テレビ局が悪かったんだ、すみませんでした」と表明して欲しくて仕方ないみたいだ。なんでなんだろう?謝る、ということはどういうことなんだろう?

謝るとは「自分の過失・罪を認め、すまないという気持ちを相手に伝え許しを求める。わびる。」とある。けれどもこの行動が起こるのはあくまで自らそう認め、認めることによってすまないという気持ちが起こり、気持ちが起これば行動をしたくなる。その行動として最もよく発生するものが謝るという行動になったんだろう。

が、今起こっているのは「自らは誤っていない」と感じている人たちが「誤っている」と定めている人達を多数決的に定めて、そしてその人たちに非を認めさせる。非を認めてほしくて仕方ない。多数決的にとは綺麗な言葉でいうと社会的にということになってしまうのかな。ただ社会的に相手が悪いと定めたくて仕方ないというのは、どうにも陰湿なやり方に思えてしまう。
そして相手が非を認めると*2一転して、しょうがなかったよね。みたいな意見が出てくる。自分の陰湿さに気づき、それを緩和したくなるのだ。けれどその緩和する行動は、泥水に綺麗な水を注ぎ、沈殿した泥をかき乱してる行動に見えてくる。そしてこの私の文章もそれに当たってしまうのだが。


なんだか変な方向に考えが流れてしまったが、謝ってほしがりな日本の性質みたいなものを感じる。
といいつつも私も亀田選手の試合を友達の車で少し見て、いくらかの憤りのようなものを感じ、その後こんな文章を書いてるんだからなぁ。如何ともし難い。

*1:まぁ私の考えが入ってますが

*2:認めさせられた、かどうかは関係ない