ウェブ時代をゆく

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

(書きながら、まとまらないことを感じたので読書感想というより日記やメモの類になっています。)
ウェブ時代をゆくは発売日に買いにいき、入荷しておらず結局amazonで注文して日曜に一気に読破。大雑把な感想を言うと、目新しいことはそんなにないかな、と思うものの梅田さんの考え方や想いは多く詰まっており、知っていることが多かったと思うのに私は一度では掴みきれなかった、という思いがある。目新しいことはない、というのは私は梅田さんが書いた本は一部を除いて大体読んでいるし、ブログも全部読んでいるしフォーサイトも大学の図書館で読んでいるから、ということがあると思う。もしそういったものをあまり読んでいない人が本書を読めば新しいことが多く書かれており、ワクワクする感覚をさらに味わえるのではないかと思う。

しかし梅田さんの書いているものには一貫して「モノを書く意義は、それを読んだ人の心に何が生じたかに尽きる」*1という信念のようなものがある、と改めて感じさせられる。私が梅田さんに対してもっとも感じるのは「自覚的な人」だということだ。自覚的な人、というとなにやら曖昧な感じがしてしまうが自分、自分の周り、自分の世界と他人の世界、を把握した上で、無意識にでなく意識的に行動している人だなぁと思う。

この本はとにかく心に何かを産ませてくれる。特にワクワクするようなものを。斜に構えて読んでしまうと、批判も多くできるのだろうが、生憎私は人の意見や考えについてはそのまま受け止めて馬鹿みたいにワクワクしたりするタイプなので*2そのまま楽しめた。梅田さん自身の言葉ではないが引用されていた言葉で

「タダの高速道路が出来たのに、なんでみんな歩いてるんだよ!なんでどこにも行こうとしないんだよ!」
(第3章 89ページ)

というのがあったが、これはガツンときた。何やってんだ、と。ずいぶん話が飛ぶが私は大航海時代に対して憧れのようなものを持っていたし、今でも持っている。(小さいころにしたゲームの大航海時代なんかも影響しているのかなと思う。)未踏の地を発見する、知らないものを見聞きする、そういうことは誰でも幾らか憧れに近いものを抱くと思う。だから中学生のときなんかは宇宙に対して興味を抱いて、Newtonを読んだりして宇宙に思いを馳せたりしていた。宇宙=未踏の地というのはイメージしやすい流れだろう。しかし未踏の地というのは分かりやすく壮大な例が宇宙であって、何も宇宙に限るものじゃない。たとえば私なんかにとっては英語圏の世界は未踏の地になる。そこに書かれていることを読み感じるなんていうことをリアルに想像するとテンションが上がる。それなのに、せっかく未踏の地に行ける道がひかれたの行きたくないのか、と。なんでぼさっとしてるんだ、と。
また英語の話にこの本を絡ませると、梅田さんはネットにおける英語圏の日本語圏の情報格差のようなものにも危惧を抱いている。Itunes Uやグーグルブックサーチ、Facebookあたりにも触れて

英語圏ネット空間の知は、「次の十年」で圧倒的に充実していくだろう。このまま十年が経過すると、英語圏の「学習の高速道路」が著しく充実し、英語圏に生まれ育つことの優位性がこれまで以上に増幅されてしまうのではないかという危惧すら抱く。
(第5章 172ページ)

と述べている。だからこそ英語を学んでそこに混じりたいという気持ちと、日本でもっとネット空間の知を増やしていかないとという二つがあるが私はまずは前者を採りたいと思う。今はまだいろんなものを吸収したいという気持ちが強いからだ。まだ研究をしていてもそうだが、何をやっても知らないことが多いなと感じる。また英語がすらすらと読めるようになったときにグーグルブックサーチが本格稼動していればもうワクワクである。数年前にグーグルブックサーチの計画を聞いたときの高揚感は凄かった。この計画だけでグーグルを賞賛したい気持ちに駆られたのを覚えている。もともと本が好きだし、書店や図書館というような本に囲まれている場所が大好きだ。中高生時代なんかは書店で何時間もいることも多々あったし、地元の小さな書店で何時間もいるから店員さんに「まだ物色したりないの?」、なんて注意されることもあった。そんな私にとって世界中の本に囲まれることができるというのは物凄いワクワク感である。

なんだか引用して言及してみたい部分が多くでてくるが、本全体を網羅するのは難しいと思うので特に感じ入った部分に絞ってみる。

私たちが同時代として生きている「1975年から2025年までの半世紀」は、百年先にどう総括されるだろうか。
(序章)

この本はこう始まる。この考え方は別に章でもいくつも出てきており一つのポイントだと思う。この時間の流れを意識した把握の仕方は他の場所でも述べられている。

ネット上の創造的コミュニティの現在は、企業の発展史になぞらえて考えればまだ東インド会社くらいの段階
(第3章 76ページ)
歴史上の人物が信号をはっしていれば、同時代の社会状況とその人物が発する信号の関係を考えては現代にあてはめたり、過小評価されている同時代の人物や組織のありようが信号を発していれば、百年先の未来から現代を歴史のように眺めようと試み、過小評価されている対象の意義を再定義しようと試みる。
(第4章 141ページ)
「時代の変わり目」を生きているのかもしれないという予感を抱きつつも、目の前の現実を眺めれば何も変わっていないようにも見える。江戸末期の幕府関係者の意識や庶民感覚もそんなものだったろう。
(第6章 197ページ)

というようにこの他にも多くある。この考え方、把握の仕方は私にとってはとてもワクワクさせてくれるものである。昔から伝記やら歴史や歴史小説が好きだった私は自分を歴史の中でしっかりと把握してみるというのは、自分を大きく成長させてくれる考え方だと思う。歴史から自分というものを類推する。歴史というとあまりに大きなものだからそこから自分を類推しにくいが、だからこそ類推しえて、その結果何かをすれば成長するはずだ。
また梅田さんが自身の座右の銘とも言っている「Only the Paranoid Survive」にも時間の考え方は通ずるところもあると思う。これは「病的なまでに心配性な人だけが生き残る」というように紹介されている。それぐらい今現在のことにも、これからのことにも緊張感を持って、アンテナをはって生きろということである。
けれど私はこれについては少し否定をする。心配とは今までのことではなく、これから先のことに対しての心のあり方である。はっきりいって常日頃から病的なまでの心の状態でいることは私には無理だと思えるし、そんなに心配してどうするんだという気持ちがある。もちろんこの言葉は物事を端的に表すために極端な言葉を用いているのは確かだ。
だから私なりの言葉にかえると、「明日のことは心配するな、その心配を何倍にもして、数年後に向けろ」になる。*3大体、明日のことを今日心配しても仕方がない。今から心配して明日どうにかなるような問題はたいした問題ではない。本当に心配しないといけないような問題が明日急にあらわれたのなら、それは今日心配してもどうにもならない。それは去年の自分やら10年前の自分の心配が負うところだ。これは今時間の遠近で語っているが、結局のところは物事の重要性の問題になる。時間的に近いものでも重要なことはある。しかし考えるべきは「物事の重要性 × 物事の大きさ」である。時間的に近いものはこの物事の大きさが小さいことが多い。*4一方で時間的に遠いところにあり、重要なものは多くの場合、物事の大きさが大きい。そしてそれは自分の人生の一部となるようなものが多い。だからこそ明日のことより、数年後のことを心配しろ、ということを自分に一番言い聞かせたい。

しかし自分で書いていて思うが、これでは目の前にあることをしっかりとするための意思のようなものが不足しているなと思ってしまう。
この解決方法の一つが好きなことをするということなんだろう。本書では「内からの促しに従う勤勉」と書かれている。自分の好きなことをやる、それによって自然に生まれてくる勤勉。そしてこの勤勉は、この状態にある人にとっては苦痛ではなくて楽しみであるのだとある。数年後の心配の対象を本当に自分が好きなことについての心配に設定すれば、内からの促しによる勤勉も生まれうるということだが、今私が難しく書いてしまったことは好きなことをやるということだ。簡単なことを難しく言うという恥ずかしいことをしてしまっている。

もう一度はじめから考え直してみる。
もうここからは完全にメモの類です。
特にこの本でも議論の対象となっていた好きなことと仕事について考えてみる。「好きなこと」と「重要なこと」の2つの軸について整理してみる。また分類は、今その人が自分の時間の主なる使い方によって分類し、それぞれの分類にいる人は最低限生きるだけの糧はその仕事で得ているとする。好きなことって重要なことじゃないか、っていうのは無しで、好きなことはあくまで自分が主観的に好きと感じることで、重要なこととは判断するのは客観的に重要と判断することとする。重要であるか、ないかの認識ができることが個人が影響力を持ちえるかどうかの鍵であるとも言うしね。

1にいる人は好きなこと且つ重要なことをしている人だ。これが一番望ましいと思う。一番望ましいな、と思うことは自分がそう認識できていることだ。充実感にあふれているとあると思う。
2にいる人は好きなことだけど重要でないことをしている人だ。これはこれで一つの形だと思う。好きなことをして生きており、生きることができているんだからそれでいいと思う。1には工夫をすれば移れることもある。
3にいる人は好きじゃないが重要なことをしている人だ。たとえば1に移るためにそうしている人や、ただ稼ぐためにそうしている人も含まれるだろう。またここにいる人はいずれ1あるいは2に移ろうとも考えている人と思われる。もし移ろうと思っていない人であればそれは自分が知らないうちに4に移っている。
4にいる人は好きじゃないし重要でもないことをしている人だ。自分で書いていて笑ってしまった。なんだこの区域は。けれど結構いそうだし、自分もこれに当てはまってしまうのではないかと思ってしまう。ここにいる人はいずれ1や2に移ろうと思ってもほとんど移れない。(物凄い低い確率ではあり得る)重要でないことばかりしているんだから。移れる確率が高いとしたら3になる。
こう見て行くと、結局は1か2を求めていることになる。当たり前じゃないか、と思うかもしれないが当たり前ならなぜはじめから1か2に移らないんだということになる。移らないんじゃなくて移れない、1や2では生きていけないという人が大勢なんだと思う。ではその人は、私は、1や2に移るために行動してるんだろうか、工夫してるんだろうか。また本当に移れないんだろうか?移れるのに移っていないだけではないだろうか。もしくは移るには苦痛が伴うから移っていないだけ、というならそれはあなたの嗜好が「好き」よりも「苦痛から逃げる」ものなんだから、嗜好を満たすという意味ではもう2にいるのかもしれない。ただしいつまでたっても欲求不満な状態の2でしかなさそうだ。もし胸をはれるほど行動し工夫しているのであればいつか移れる可能性が高い、がんばれ。もししていないんだったらあなたは、私は4にいる。さっき自分で笑ってしまった「好きでもないし、重要でもないことをしている人」だ。なんてことだ、そうであれば我ながらおののいてしまう。少なくとも「好きなことをしている」という実感がなければ3か4にいるのだ。
なんだかあまり整理にならなかったが、自分自身の認識の役には少し立ったかな。「好きでもなく重要でもないこと」をしているなら、その状態におののけるなら、今すぐに抜け出さないと。そして4から3へ、もしくは物凄い幸運で2へ、更には1へ行けるんだったら躊躇せずに移ろう。前にも引用したが

「機会が二度も扉を叩くと思うな」
シャンフォール

である。
ここまでを無理やりまとめてみると、「明日のことは心配せず、その心配を何倍にもして、数年後に向ける。そして数年後に向けるときにはいつも自分が今どの状態にあるのかを、まじまじと見据え、ともすればおののくことを活力にして数年後の方向を向いたときにある、目の前のことをする。」*5

やはりこうなると梅田さんのように「Only the Paranoid Survive」としたほうがシンプルで美しくて、物事を捉えている。私のは冗長すぎる。まぁ人の座右の銘に、私が少し考えただけの言葉が届くはずもない。けれど私なりに「Only the Paranoid Survive」を消化することにはなっただろう。
そして「Only the Paranoid Survive」という状態を維持できる人、本書でいうところの「けものみち」を歩く人にとって必要な感覚が、本書でいうところの『「個」としての精神的自立』*6である。この言葉にあったとき似たような匂いのものにあったことがあるな、と思ってふりかえるとルービン回顧録でも似たようなものがあった。

のちに私が政治にかかわるようになったとき、この頃のことを思い出した。とはいえ、第一に考えていたのは、経済的というより心理的に依存しないことだった。自分が何者か考えるのに政治が切り離せないのであれば、自分にも、自分の見解にも、自分の価値観にも正直であり続けることがかなり難しくなる。いまいり場所からいつでも立ち去れると感じていれば、政治的な環境の要求にどの程度適応するのか、自分で決めることができる。そして経済的自由があれば―――必要でも十分でもないが――心理的自立を保つうえで役に立つだろう。
(第2章 75ページ)

少し色合いが違うが個としての精神的独立の重要性について触れている一文だ。また違った形で司馬遼太郎の言葉として梅田さんが引用されているところは

アメリカについての言及)決してそこへ移住はせぬにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感が人類の心のどこかにあるのではないか。
(終章 230ページ)

である。この言及がアメリカについてであることは偶然ではなく、司馬遼太郎がこのような言及にいたるような国がアメリカであり、だからこそアメリカでgoogleなどを筆頭にインターネットの興隆が起こっているのだろう。

自分の周りのあらゆるものによって緊張し、アンテナをはりめぐらしリンクすることと精神の独立を測るということは矛盾していそうでもあるが、こういった二重性を許容した上で行動することが本当に行動するということなんだろうな、という考えにいたったときにこれは私の考えでなくて、以前にも引用した小林秀雄の言葉を援用しているだけであることに気づいた。

一と口に実行家と言っても、いろいろある。
しかし、彼の場合のように傍から見ていても、それとはっきり感じられるのだが、並外れた意識家でありながら、果敢な実行家でもある様な人、実行するとは意識を殺すことである事を、はっきり知った実行家、そういう人は、まことに稀れだし、一番魅力ある実行家と思える。
考えることが不得手で、従ってきらいで、止むを得ず実行家になっている種類の人が一番多いのだが、また、そういう実行家が、如何にも実行家らしい実行家の風をみせるものだ。
この種の退屈な人間ほど、理屈など何の役にも立たぬ、といつも言いたがる。
偶然と幸運による成果について大言壮語したがる。
一般に、意識家は実行家でないという俗見の力は非常に根強いものだと思う。
ある場合も逆の場合も、すべての条件を考えたい。
だが、実行するには、たった一つのことを選んで取り上げねばならない。
そういう悩みで精神が緊張していないような実行家には、興味が持てない。
(私の精神/小林秀雄

しかし小林秀雄の言葉をしっかり消化して、栄養になり、身についてきているのかなという実感でもある。梅田さんの言葉も考え方もしっかり消化して栄養にして、自分の実感になるまでにしたい。

*1:あとがきより

*2:自分自身については斜に構えたりしてしまっているが・・・

*3:う〜んいまいち力がないな。

*4:例外はあるが、それはあくまでも例外

*5:いまいちだ・・・(笑)

*6:序章 32ページ