風邪

情けないことに風邪を引いています。上と下から別に頼んでないのに出るもんが出て行きます。今週の初めからだったんで、もう楽にはなってきたんですが、下と少しだけ上からまだ出ます。肩こって熱をまた出したらいけないってのも考えて、ほとんどネットできないで暇だ・・・。まぁ銀河英雄伝説のDVDの残りは、外伝少しになりました。そろそろデータの加工やらを再開しないと。
卒業研究・・・ヤバイなぁ・・・。

バベル

ロッコで生活のために山羊を襲うジャッカルを撃つために銃を渡された兄弟。彼らはその腕を競い合うように発砲。その銃弾はツアーバスの女性客の体を撃ち抜いた。女性はモロッコに旅行に来ていたアメリカ人夫婦の妻。夫は家に残した子供たちの面倒をみている乳母に電話をするが、乳母は突然の出来事に驚き悩む。息子の結婚式に出席したい彼女は、やむを得ず、夫婦の子供たちをメキシコに連れていくことにした。一方、日本では、母親を泣くしたショックから立ち直れない聾唖の女子高生が愛を求めて町をさまよっていた。自分は誰にも愛されないのか、誰も抱きしめてくれないのかと心の中で叫んでいた…。
一発の銃弾が、モロッコ、メキシコ、日本を撃ち抜く。お互い見知らぬ関係なのに、その銃弾は彼らの人生に次々と暗い影を落とす。人生は突然、思いがけない事態に陥り、人々は悩み、苦しみ、ときには地獄を見る。しかし、そこから何かが生まれることもあるのだ。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトウ監督は『アモーレス・ペロス』のときから、人生のどん底をこれでもかと見せつけるが、決して登場人物を見放すことはない。必ずや長く暗いトンネルの向こうに細く差し込む光を描くのだ。モロッコ編で夫婦を演じるのはブラット・ピットとケイト・ブランシェット。メキシコ編で乳母を演じるのは『アモーレス・ペロス』にも出演していたアドリアナ・バラッザ。その甥をガエル・ガルシア・ベルナルが演じている。そして日本編は、女子高生役に菊地凛子、父親は役所広司。ブラッドはどうしようもない現実に苛立ち、苦悩しながらも、妻や家族への愛を確信する中年の男を力強く演じきり、菊地が演じる少女の孤独は痛々しく胸に突き刺さる。彼女の悲しみと怒りを讃えた瞳は見るものをとらえて離さないだろう。(斎藤 香)

ずいぶん見るのが遅くなったが、借りてきて見た。今スタッフロールが流れている。
12日の夜にNHK坂本龍一役所広司の対談があり、その中で流された坂本龍一の曲を聞き、見たくなり見た。
日本の撮影で使われたdankogaiさんの部屋も見てみたかったしね。*1


にしても複雑だ。絡まった糸くずを、といてみろとわたされたようだ。見た後の気持ちも複雑になるし、映画自体も複雑だ。この映画では、一丁の銃による因果で世界が絡み合い、絡み合った先々でフラクタルな世界が描かれている。因果という輪に、それぞれ我欲と愛*2という歯車が存在しているようだ。
もちろん題名の「バベル」という名の通り、コミュニケーション不全もこの映画の一つのキーワードだ。リチャードとスーザン、アブドゥラ一家、ケンジとチエコ。どこでも通じあえずにいる。言語によるコミュニケーション不全を埋めようとしているのが、肉体によるコミュニケーションだ。チエコの例を一番わかりやすく描き、ユセフとその姉、アメリアと知人の男という構図も同様だ。
まとまらないな・・・。思いつくままに書こう。
事の発端は善意だ。ケンジが善意でアブドゥラに挙げた一丁の銃だ。それがなければスーザンは撃たれなかったし、ユセフは撃たなかったし、スーザンが撃たれなかったらリチャードとスーザンはアメリカに帰れていたし*3アメリアは余裕を持って息子の結婚式に出席できた。そしておそらくケンジが銃を持っていなかったら妻は拳銃で自殺していなかっただろう。映画の内容から、おそらくケンジは妻を拳銃自殺でなくしてからハンティングはしていないんだろう。
銃。道具。便利な道具。けれど銃の用途は何かを傷つけること。最もポピュラーな用途が殺すこと。そう、銃は殺す道具。効率よく殺す道具。道具に善悪はないというが、それは善悪を誰も定義できないからであって、善悪を定義できるならば道具に善悪は存在する。現在はまだ定義はできていないから、人を殺すことさえ悪と断定できない。もし人を殺すことを悪とするなら、それは動物全般にも拡張されて、何かを殺して摂食する動物は全て悪になるだろうから、おそらく人は人を殺してはいけないと永遠に断定できない。ベジタリアンになればいいじゃん、っていうかもしれないが私にはなぜ葉は食っていいのかわからない。*4植物だって生きてる。

ずれてきた。ケンジがアブドゥルにあげた一丁の銃に戻ってみよう。もしケンジが銃をあげなかったら、一連の悲劇は起こらなかったのだろうか。おそらく起こらなかっただろう。多くの人は悲しまずに済んだのだろう。世界の悲しさの総量はおそらく減っていたんだろう。けど今回は善意が悲劇に繋がったが、もし善意を否定するならば世界の喜びや嬉しさの総量もおそらく減ってしまうのだろう。中学ぐらいから考えが進歩してないけど、やっぱり世界の感情のプラスマイナスはつりあっているんだ。だから悲しさを減らしていけば、嬉しさも減っていく。世界は起伏のないフラットなものになる。大きな喜びと悲しみのある世界か、喜びも悲しみもない世界かどちらかしかないのかな。
もしバベルの話のように、世界が同じ言葉で、さらには一歩進んだコミュニケーションを手に入れれば違った選択も可能になるのだろうか。いや、世界が同じ言葉じゃないから、一歩進んだコミュニケーションの登場を期待できるのかもしれない。それがいつになるのかなんて到底わからないけど、おそらく言葉を混乱させた神がいたのなら、そいつは一歩進んだコミュニケーションをまだ得てないな。神は人に期待してやったのか、嫉妬してやったのか。幼年期の考えに浸りすぎか。


映画の表現で印象的だったのは聾唖者であるチエコがクラブに行ったときの、音のオンオフだった。音がなければなんと異様なことだろう。音が聞こえないとのれないのだ。クラブにいる人は、音という台の上に立って高揚して、思わずジュリアナ*5してるだけであって感情で踊っているのではないだろう。(先日のエントリーと少し関係するけど)でもやっぱり音は、言葉より感情表現に優れたツールなのかな。でもそれじゃ、聾唖者は?いつまで経ってもそのツールを持たざる人でいるしかないのか。Life is Music☆なんて持つものの傲慢にすぎないのか。

頭に思い浮かぶことをそのまま書くと、どうしても話がどんどんあらぬ方向にいくなぁ・・・。




それにしてもメキシコの空は。

*1:映画の最後のシーン、あのベランダ怖くないのかね

*2:夫婦であるリチャードとスーザン、兄弟であるアフメッドとユセフ、親子であるケンジとチエコ、他人であるアメリアと子供達

*3:帰れていたかどうかは定かじゃないけど

*4:もちろんベジタリアンが何かを殺して食うのが嫌だからベジタブルしか食わないわけではないだろうけど

*5:古いか

すみませんでした。

先生のこと甘くみてました。すみませんでした。(見てないだろうし、面と向かって甘く見てました、すみませんなんて言えないけど)
やっぱり私と先生の間にはいろんな面で大きな差があるのがわかりました。私がやっていた作業(データ加工など)を、その1/10ぐらいの時間で綺麗に終わらせられるとは思いませんでした。ほとんど使ったことがないソフトだからってのもあるんだろうけど、作業効率の桁が違うことを痛感しました・・・精進します。
先生の年ぐらいには自分もそんな風になれるのかな、と思うと頑張らないとって気持ちと焦りが出てくるなぁ。

帰ったばかりだけど今日はもう寝よう。明日は早い。

言葉と感覚・感情

まったく意味のわからない話になると思う。

昨日寝るときにある感覚がやってきた。昔から、小さいころから何度もやってきている感覚。けど未だにこの感覚を言語化することができていない。感覚自体の存在ははっきりと感じるのだが、この感覚はなんと言えばいいんだろう?昨日はこの感覚が口に来た。言語化できていないのをあえて言葉に近づけると、口の中、厳密に言うと上の歯と下の歯の間に大きなものが、鯨ぐらい、いや体育館?ぐらいの体積を占めているものがある感覚。いや体積より質量のほうが近そう。そんなものは口に入るはずがないんだが、意外とフィットしている。それでいてなんともいえず、焦れていて、圧迫されている感じ。
もう何がなんだかわからない。昨日はこれが口にきたけど、体全体にこの感覚がくることもある。*1本当に忘れるぐらい時々だけどしっかりと感じることができる。

で、それから何を考えていたかというと感覚を言葉にするのは難しいな、と。感覚を言葉にするのか、言葉に感覚をはめるのかは議論があるだろうけど、どちらもあるだろう。けど99%の人は言葉に感覚をはめているのだと思う。実際に感覚を言葉にするのはとても難しい。そりゃ新しい言葉は毎年毎年増えているけど、それらは全て何かの派生語。例えば名詞の動詞化であったり、略語化であったり、短縮化であったり、形容詞化であったり、言葉の新しい組み合わせであったり、感嘆化であったり、方言であったり、昔の言葉の再使用であったりするだけで全部既成の言葉ありきのもの。*2そしてそれらの言葉に自分の感覚であったり感情であったり、状態であったりを当てはめて表現しているだけで、感覚を言葉にはしていない。多分、感覚を言葉にするのはコストがかかりすぎるんだろう。さっき読んでいたエントリーで

このコンテナーという考えがどれほど物流を変えたかというのを、ここで繰り返すつもりはない。
知っておいて欲しいのは、この「あえて器を絞ることで、ものごとを運びやすくする」というのは情報に関しても行われていることだ。
404 Blog Not Found コンテナーという革命

というのがあった。コンテナーがそんなに物流に革命を与えたというのは知らなかったが、言葉もコンテナーみたいなもの。疎通の道具(表現方法)にも色々あるがで、言葉が革命を与えたんだろう。言葉には形と大きさと色があって、感覚にも形と大きさと色がある。形と大きさと色をそれぞれ見比べて合いそうなのに入れて人に渡す。これが言葉を使った疎通。だけど感覚のほうが形を変形させやすいから、もしくは感覚のほうが切ったり千切ったりしやすいから、言葉の箱に入らなかった分は千切って箱に入れて人に渡すんだろう。千切ってしまったのは事実だけどその方が効率的に渡せる。きっと感覚はどろどろだけどふわふわとしたスライムみたいで何か箱(表現)にいれてやらないと、持ち上げて渡せないんだろう。


でもまぁ、時には自分の荷物を自分できっちりと積めてやってもいいんじゃないかと思い、上の言語化できない言葉を新しく作ってみようと思った。で、どうやって作るかを考えたときに感覚に頼るしかないと思った。でも感覚に頼るってどうやればいいんだろう?と少し思案していると、音だなと一応結論付けられた。言葉の音。多分そこらから言葉を作ったんじゃないかな。言語学?みたいなのを研究している人が見たら幼稚な推測かもしれないけどきっとそう。
例えば「痛い」って言葉、なんか感覚を表してない?尖っている感じの「い」とか「た」の前にある若干の破裂とか、弱っていく感じとか。*3もう「痛い」っていう言葉の枠組み、箱を見ちゃってるからなんともいえないけど。和英で痛いを引くと「pain(痛み)」とか出てくる。ほら、尖ってる感じに破裂の感じに弱っていく感じがする。他にも「sore(痛い)」とかも出てくるけど、こっちはなんか痛いんだけど、どちらかというと中でグワグワとねばっこい感じ。苦しい感じ。実際に英語を使う人がどんな感覚で使ってるのかはわからないけど。*4

まぁとりあえず言葉の音で作ってみようと思った。徐々に眠くなってきたなぁと思いながら言葉を発してみたり、言葉の感覚を掴んでみたりしてると、「あ」と「わ」が少し近いかな、と感じた。で圧迫感もある感じを混ぜるために「ぐ」とか「う」とかそこらへんをいれてみると「あわぐ」とか「あわう」とかがどうだろうと思ったが・・・・・・こりゃ不細工で持ちにくい箱だ。しかも音から感がえようと思ったのに、「あ」とか「わ」は明らかに上で挙げたような口の状態から来ている。

なんとも感覚を言葉にするとは難しい。「嬉しい」とか、「悲しい」とか、「ありがとう」とか、「ごめん」とか、「すごい」とか、「眠い」とか、「ウォンチュー!*5」とかとか使い出した人は凄いな。
何か本当に新しい言葉とかって最近出来たりしてるのかな?


あたりで気づけば朝だった。多分寝たよ。でも、子供の頃の「気づけば朝」*6って感覚だった。

*1:そうなると上の表現じゃもっとわからない

*2:例えば2007年の新語流行語大賞を見てもわかると思う

*3:尖った感じとか破裂に関連する状態における感覚だからだろうけど

*4:説得力ないな・・・

*5:ウォンチューは多分want youぽいから違うか

*6:寝たんだけど寝てない、時間が飛んだような

触れる部分

勉強を集中してやっているときは、やればやるほどわからないところが増えてくる。逆に適当にやっているときはわからないところは別に出てこない。わからない部分が出てこないのは、わかった気になっているだけの時だ。
自分の知識や知恵を球に例えると、集中しているときはどんどん球が大きくなっている感じがする。そして球の表面が他に触れる部分、つまりわからない部分、知らない部分。大きくなればなるほど、わからないことや新しいことにふれる面積が増えてくる。そういう感じ。
勉強してもわからないところが増えてくる。けどこれには2パターンある。新しくわからないと思う部分(量)が身についた知識・知恵より大きいときと、身についた知識・知恵がわからない部分(量)より大きいとき。
身についた知識・知恵=円の体積=4/3π*1
ある一定以上やらないとっていうのは勉強だけじゃなくて、なんでもそう。スポーツでも、人付き合いでも、なんでも。ある閾値を超えないと何も起こらない。何も残らない。

要するに自省です。今日はギリギリA-B>0ぐらいです。

にしても眠たい。昨日RSS更新してなくて溜まってしまったのとか見てたらもうこんな時間。早く寝て早く起きないと。*2

*1:r+Δr)^3-r^3) (=A)であり、新しく出てきたわからない部分=円の表面積=4π(r+Δr)^2 (=B)である。Bをこうするかどうかとか、A-Bとするかどうかは微妙なところだけど、A-Bの正負を決めるようなΔrがある。これは今の自分の大きさによって定まる。 だから集中して勉強するにも、身についた部分>新しく出てきたわからない部分にならないと、意味がない。ある一定以上やらなければ、どんどんわからなくなってしまう。もちろんわからない部分に目をつむればしっかりと身についていることもある。けれどそれじゃ、せっかく新しく触れて見つけたものを無駄にしてしまう。それは些細なようだけどとても重要なもの。無駄にしたり、無視すると物凄いもったいない。((実際はわからないこと全部に突っ込むことのは限界がなくて無理、悲しいけど何処かで切らないといけない。けれどそれは意識的に切るわけで、無視するんじゃない。

*2:でもたぶん今は寝れなさそう、色々読んで脳が少し興奮状態&眠気のピーク(11時半ぐらいだった)を越した

レビュアブルマインド

essaさんが開発したレビュアブルマインドというものが紹介されている。
個人用タスク管理ツール「レビュアブルマインド」

たぶん今触らないでも、そのうちはてなで人気が出て触りたくなるだろうからさっそく触ってみよう。
slimtimerで作業記録をつけよう、自分の時間投資はどのような状態なのか見ようと思っていて、つけなくなってきた私ですがこれも試しに使ってみよう。

(設定からはブラウザの戻るでしか戻れないのかな??)

ワロタ

ワロタ。いや、ブログ主さんにとっては本当にいい迷惑なんだろうけど、流れに笑ってしまった。なんだかツボにはまった&尾を引く笑いで、グフフと笑ってしまっている。

404Blog NotFound

人間の価値を賃金の多少で差別したがるのは誰か?
のエントリーに対するコメントで

結局言いたいのは最後のアカギショータイム楽しみだな〜って事だけだろ??
私は知らん
Posted by 頭悪い人 at 2008年01月06日 10:59

というものがある。

さらにコメントを読み進めると再度、頭の悪い人という人が書き込んでいる。

先ほども「頭悪い人」という名前で書き込みをした者ですが・・・
書き込みを確認すると「Posted by 〜」の場所にリンク貼ると自分のサイトという意味にとられそうですね・・・
本文に参考リンクを書くと英数字記号が目立って文が読みづらいかなと思ったので「URL:」に貼っていましたが、以後気を付けます
もし宜しかったら訂正の方お願いします。失礼しました。
Posted by 頭悪い人 at 2008年01月06日 11:28

ここで頭の悪い人のコメント(10:59のもの)にリンクがあるのに気づいた。
で、リンクに飛んでみると、danさんのエントリーとどういった関連があるのかわからないブログに飛ぶ。

本と奇妙な煙
某ブログから飛来の方へ

あとは飛んで読むだけなのだが、なぜかこれがツボにはまってしまった。
頭の悪い人の2つのコメントのギャップ、HN、何がしたかったのかわからなさ、そして「私は知らん」だ。この「私は知らん」と実際にやってしまっている行動とが面白可笑しくてツボにはまってしまったみたいだ。*1

*1:kingfishさんにするといい迷惑で、笑いのネタにされて不愉快かもしれませんが・・・面白かったので(笑)