茶の本

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)

先週の日曜に読了。買ったけど積んでいた本の一つ。茶の本とはあの有名な岡倉天心が書いた本である。読もう、読もうと思って読んでいなかったが読みたくなった勢いで読んだ。ページはさほどあるわけでもないが、その割には時間がかかった。知らないことが多くあったこと*1が影響しているんだろうな。
内容は茶の本というよりは日本、アジアの文化論。ググってみるとなんと全訳が読める!?と思ったけど全部ではなく要約の形になっているようだ。この要約は日本語も現代風にしておりやさしくより読みやすいので読んだことがない人はググって三つ目ぐらいに出てくるサイトを読んでみるのも良いかと。

茶は薬用として始まり後飲料となる。

と始まる。この一文がイイと感じた。もともと英語の本だからというのもあるのかもしれないが、この文章にはこの人の人となりが現れていると思う。
一部に傲慢な口調であると感じることもあるかもしれないが、茶人たるこの人があえてこのような文を書いていることに思いを馳せると余計によろしく感じられる。さらにはこの時代の西洋の東洋に対する態度などの怒りも含んだ文章のような面もある。

茶について語っている部分を引用すると

茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑うけだかい奥義である。したがってヒューマーそのものであり、悟りの微笑である。

茶道や華道という日本の道のつくもの全般に通じる言葉ではないだろうか。またチャールズ・ラムという人の言葉を借りて
「ひそかに善を行って偶然にこれが現われることが何よりの愉快である。」というところに茶道の真髄があるとしている。

ずいぶん話が飛んでしまうが、私は母親を尊敬している。身内であることは差し引いて、贔屓目に見ないでも人間として尊敬できる。しかし、母を尊敬しているにも関わらず、母が何を考えているのかということをしっかりと考えたことはないと思う。なぜ母の話が出てきたかというと母はお茶とお花をしており、それなりのもののようだ。であるからに、母もそれなりに*2モノを考えて、お茶やお花に通じるようなものから自身の考えを作ってもいるんだろう。そういうことを考えると、上の引用のような性質を母からは感じることができる。それが尊敬する理由の一つにもなっているんだろうな、と思う。


この本で一番印象に残っていることは「身の上におこるまじめながらの滑稽さを知る」ということだ。はっきりいって本の主旨からは外れているし、枝葉の言葉だがこれは一番の学びだと思った。まじめながらの滑稽さ、これは見ていて本当に美しい。美しいなんて言葉使うのはなんだか照れ臭いがそれは美しいものだ。
どういったものが「まじめながらの滑稽さ」なのかはわかる人にはわかると思う。けれどあれを私の中にある言葉の、どの言葉で表してよいのかわからなかったが、「まじめながらの滑稽さ」という言葉で表せるのかとはっきりわかった。

しばらくしたらもう一度読んでみよう。また新たな発見がありそうだ。

*1:道教のことを筆頭に

*2:なんで上目線なんだ・・・