生物と無生物のあいだ

そういえばネット切断してる間にアウトプットしてたのにブログに載せてなかったので載せておこう。


生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

なんとも素晴らしい本だった。

遠浅の海辺。砂浜が緩やかな弓形に広がる。海を渡ってくる風が強い。空が海に溶け、海が陸地に接する場所には、生命の謎を解く何らかの破片が散逸しているような気がする、だから私たちの夢想もしばしばここからたゆたい、ここへ還る。
 ちょうど波が寄せてはかえす接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた、緻密な構造を持つその城はある、ときに波は、深く掌を伸ばして城壁の足元に達し、石組みを模した砂粒を奪い去る。吹きつける海風は、城の望楼の表面の乾いた砂を、薄く、しかし絶え間なく削り取って行く。ところが奇妙なことに、時間が経過しても城は姿を変えてはいない。同じ形を保ったままじっとそこにある。いや、正確にいえば、姿を変えていないように見えるだけなのだ。

 これが9章の「動的平衡とは何か」の冒頭部分である。ここから動的平衡についての話が始まる。他にも章の始めには多くの場合、このような詩的な文章から始まり、読者を引き込む。しかしこの詩的な文章は決して単なるロマンチストを気取ろうとしている文章ではなく、著者の経験そのものである「徹底した観察」を記述した、極めてリアリズムに立った上での詩的な文章なのだ。この本の一章も風景描写から始まるのだが、そこでも生物学者としてのこの人のあり様を見ることはできる。
私は生物学についてはまったくの無知だ。中学レベルの理科の範疇にある生物学はわかるが、高校では物理化学を勉強していたので生物学については中学生レベルだ。高校の生物なんかを少し見たところ感じたものは、中学の理科によくある知識の学問からの発展と感じられた。つまり私の中では、生物学と歴史学がなにやら近いと感じている。
なぜ生物学と歴史学が近いと感じるのか、わけがわからない考えだと思うかもしれないが私のなかではそう感じている。徹底した観察と観察の蓄積、それにアナロジーを加え何かに至る。これは何かを学ぶ、理解するという作業を言い換えたものでもある。理解するとはどういうことかと考えると、未知のものを既知に近づけることであり、このただ一つのアプローチとしてアナロジーがある。理解するとは知らないものをなにか自分の知っているものに置きかえて考えていくことだからだ。ではまったく何も知らなかったら、何も理解できないのか。赤ちゃんは理解できないのかというとそれは違って、もともと持っている力がある。それは認知と類推であり、認知できるもののみ類推でき、理解に至れる。(いるかどうかもわからない幽霊だが、認知はできる。(認めるかどうかは別だが)だから幽霊とはどういったものかは理解できる。)
この観察からアナロジーを経て、答えに至るという流れは他の学問においても同様のことを言えるのだが、生物学と歴史学はこういった点で似ており、またこの王道を歩んでいる学問だと思う。

ずいぶん私的な考えを述べてしまい、本の内容から離れてしまった・・・。
この本はドキドキする。興奮する。何故興奮するのかというと、著者が自分の研究や他人の研究を緻密に、そして現実感を持って描いてくれており、その研究における興奮、理解する興奮のようなものを味わえる。226ページから231ページにある小胞体の膜形成メカニズムなんかは物凄くわかりやすく、そしてうまく表現しており、膜が形成される様子が頭の中で、三次元レベルで再生されるのを感じた。そしてその様子は極めて微小なものではあるが、とても壮大な自然の美に接しているときの感情にも似ている。
また研究における自分と他人の競争、ここにあるハラハラするものも味わえる。このハラハラは何といえばいいんだろうか、インサイダー情報を持っているハラハラ感。いや、インサイダー情報なんて持ったこともないし、実際の株取引やらもしたことないけど、そんなハラハラ感じゃないかと思う。インサイダー情報というと悪く聞こえてしまうけど、なんだか人を出し抜いている感覚、そう競争優位に立ったときの感覚だ。競争優位に立った優越感と、この優位性が本当のものなのかどうか、またいつ崩れるのかわからないグラグラとした感覚。科学を書いた本でこんなにも本の中に入れるとは思わなかった。
しかし興奮しながら読んでいた私を、興奮による笑みさえ浮かべながら読んでいたかもしれない私に対する冷やかな視線のようなものを感じた。そしてその視線は私自身が発しているものであった。冷やかな私はいつもいるわけではなく、こういった記述があるときに多く現われる。

実は、私たちの研究フロアの下の階には、ハーバード大学医学部の名だたる心臓研究チームが陣取っていた。彼らは毎日のようにイヌを実験台につかって心機能のデータを取っていた。まったく哀れなことではあるが、その日、彼らの実験が終了すると、心臓や血管に何本ものチューブや電極を埋め込まれたかわいそうなイヌはそのまま安楽死によるご臨終に至る。

もちろん冷やかな私は、この本で一番よくご臨終を迎えているであろうネズミの場合にも現われる。
興奮している私はそういったことを簡単に可哀想と思うのは、ステーキを頬張りながらテレビで屠殺されている牛の様子を見てなんて可哀想なことをするんだ、と言っているようなものだと思う。
そして冷やかな私は興奮している私を見て、サディスティックな性的欲望を満たし、下卑た笑いを浮かべているみたいなものだと思う。欲望が単に知的好奇心を満たしたいという欲望なだけで、欲望を満たしている興奮・笑みに違いはない。
どちらもそのとおりだと思ってしまう第3の私にもいて、できればこういったいろんな私に気づくことなくただ没頭して本を読みたいんだが、いつもこういうものを見つけてしまうのが残念だ。(そして残念に感じている私をまた残念に思う。)

そして著者も同様の葛藤のようなものはずっと昔に考え、今も少なからず考えて研究を行っているだろう。ここにも矛盾を抱えながらも、ただ行動をしている人がいるんだなと、この頃良く考えることをまた考えていた。
(11月18日)